ママライターの秘密の部屋

自宅でフリーライターをしている友人がいます。彼女の作業部屋を見る機会があったのですが、驚きましたよ。壁一面、そして机の上にもフィギュアがたくさん並んでいたのです。ちなみにこれは仕事に関係するものではなく、全部趣味で集めた物なのだとか。
「好きなものが周りにあると、やる気になるでしょう?」と彼女は笑いました。確かに学生時代、私も勉強机の上に、お気に入りのマスコットを並べたりもしましたけれど、さすがにこれは気が散らないのかしら。ただ彼女が言うには「気が散らないくらい集中するのが大事」だそうです。それができたら、作業もはかどるでしょう。さすがプロの言葉だな、と友人ながら尊敬しました。
もうひとつ、フィギュアをここに集めたのは、子供に悪戯されないためもあるとも言っていましたね。作業部屋は「ママの大事な場所だから」と立ち入りを禁止しているのですって。子供は日頃愛らしくても、時として子供は聞かん坊のわがまま悪魔になりますからね。わかります。もしかしたら邪魔の入らない静かな部屋で、宝物に囲まれて働いている時が、彼女の癒しの時間でもあるのかもしれません。頑張れママ、と背中を叩いたら、友人はガッツポーズを見せてくれました。

再スタートは特別ではない日に

子供の頃、誕生日とお正月が大好きでした。ケーキが食べられて、プレゼントやお年玉が貰えるからというのもありましたが、それより「ここから新しい一年が始まるんだ」ということにうきうきしたものです。とくにお正月は、もう社会全体がそんなムードですからね。カレンダーも干支も、テレビ番組も新しくなります。すべてがゼロに帰ると思っていました。
しかし大人になった今は、そうは思いません。どんな時でも夜に眠って朝に目覚め、自分が決めたことを繰り返す……なんらかの節目を超えたからといっていきなり、あらゆるものが入れ替わることはないと知ったのです。本来、時は切れ目なく過ぎていくのですから、それこそが当たり前のことなのですよね。それに、特別な再スタートがないということは、自分の気持ち次第でいつでも新しいことができる、ということでもあります。年齢も時間も関係なく、心ひとつでいいのです。なんて素晴らしいことでしょう。
今は、お正月も誕生日もあえて特別と意識せずに、当たり前の一日として過ごしています。
変わらぬ穏やかな時間を大切にしながら生活し、年をとって暮らしのスタイルが変わったら、のんびり読書をして過ごす……そんな生活が夢です。

成功を信じた文豪たち

この間知人と話したのですが、大器晩成の晩成って、いつ頃を言うのでしょうね。辞書を調べると「年をとってから」と書かれており、非常に曖昧な感じでした。なぜそんなことを気にしているのかというと、友人は占いで、年をとってから大成すると言われているからなのですよ。毎日その時が来るのを信じ、地道に努力を続けていますが、やはり待ち遠しいのでしょうね。
著明な芸術家や文豪の中には、死後有名になった人もいます。そのような方達は、存命の時にはかなり苦労をしていますよね。どうして自分の作品が売れないのかと思い悩み、それでも筆を折ることができず、貧困の中で生活をしたり、配偶者が頑張ることで、なんとか生計を立てていたり、様々です。友人は、夢を追い求めるのは、楽しくもあるがしんどいものだと話していました。
好きだからこそ続けられる、でも、好きだからこそ認められたいという気持ちが大きくなる……きっと文豪たちも、このような相反する気持ちを抱え、葛藤していたことでしょう。素晴らしい作品が現在でも残っていて読めるのは、後世の人が認めたからというのもありますが、何より、作家本人がどのような状態でも執筆を続けてくれたからなのです。

風邪には睡眠が一番

最近友達と「睡眠は何にも勝る薬だよね」と盛り上がりました。風邪をひいたら薬を飲んで頑張ってしまいがちですが、本当は、それよりもあったかくして眠るのが一番だということです。もちろんその時は、ただ横になっているだけではなく、ゲームも読書も我慢して、目をつぶって眠るのですよ。そうやって休んでいる間に体は、ウイルスを退治しようと頑張ってくれます。
専門的なことはわかりませんが、私はこのような流れを、小さな頃に絵本を読んで知りました。もじゃもじゃした子供の落書きみたいなウイルスが、私たちの喉の奥にいるような絵がついていたことを覚えています。うがいをすると外に出るから、ちゃんとうがいをしましょうという内容だったかしら。さすがに細かいところは忘れてしまっていますね。
出席停止になるような病気でもない限り、大人は無理をして会社に行ったりしてしまいがちです。でもきっと、誰もが昔、絵本で見たことがあるだろう風邪のウイルスたちを想像すれば、「こんなに攻撃されているならば、自分もちゃんと対処しなければならない」と思うのではないでしょうか。どんなときでも無理は禁物、自分を守るのは自分しかいないと思っています。

あえてファンレターを送る理由

先日、インターネットで連載されている面白い漫画を見つけました。多忙な日常の合間にずいぶん笑わせてもらったので、ファンレターを書こうとしたのですが……送り先がわからないかったのです。もちろん、漫画が掲載されているページには、感想を送るメールフォームはありましたよ。でも私はその編集部の住所が知りたいと思いました。
わざわざ便箋に長文を書き、封筒に入れて切手を貼って送るというのは、手間と感じる人が多いでしょう。郵送の場合はお金もかかりますし、要はメールのほうが絶対にお手軽なわけです。それでも私は、最初の一度くらいはあえて、手紙をしたためたいと考えています。なぜなら知りあいの漫画家さんが、ファンレターは何よりの宝物だと言っていたからです。
このためにわざわざ手間暇をかけてくれたことが嬉しい、メールもいいけれど、手紙は記憶に残るんだよ。彼女は初めてのファンレターを貰った時に、私にそう力説しました。そこまで言われれば、期待に沿いたいと思ってしまいますよね。確かに私は、素晴らしい文面が書けるわけでも、見せてくなってしまうほどに、文字が特別綺麗なわけでもありません。それでも、精神的な糧をお送りして、応援することはできると信じています。

時代は名作とともに巡る

ついこの間、外国語に堪能な方とお話をしたのですが、その人が一冊の書名を上げて、「最近の若い人は古い言い回しを知らないから、読むのが難しいと思いますけど」と言っていました。昔は今よりも省略する部分が多いため、現在の文法しか学んでいない人が読むには、慣れが必要なのだそうです。そういえば日本語だって、長い時間の間に言葉が変化していますものね、外国語だって同じことでしょう。
そう考えふと、海外には、私たちが学んできた現代国語や、古文に該当する科目があるのだろうか、と思いました。もちろん、それでちょっと勉強したからと言って、昔のものがすらすら読めるなんていうのは、実体験上、なかなかないことだと自覚しています。でも、ちょっと気になったのです。それは詳しい方とお別れした後に気付いたので、ご本人に尋ねることはできませんでした。
それにしても、こうしてひとつの科目になるほどに言葉が変化していくというのは、とても面白いことですよね。便利と効率を求めて生まれたのが現代ならば、今後はどう発展していくのでしょう。時代は巡ると言うから、いずれは退化する部分もあるかもしれませんね。どうなるにしても、過去の名作は残っていくといいなと思います。

偶然が導く未来の先に

好きな人が、自分の興味のあることについて、熱弁を振るっているのを聞くのが好きです。それは時として、私にはまるで縁のない世界のものなので、そうなると、その人が言っていることの半分も理解できない時もあります。長々と話を聞いて、たったひとつの単語しか覚えていなかった、なんてこともありました。
ただ、私はそれでいいと思うのです。知らない言葉は聞いてすぐに忘れてしまうかもしれないけれど、何度も聞けば、記憶の片隅には残って、いつか別の人から同じことを聞いた時に、思いだしたりもします。それで興味を持って調べれば、私の知識になりますし、また忘れてしまっても、いつかは関心を抱くのかもしれないでしょう。学ぼうと思って無理をして情報を詰め込むよりは、このような緩い感じの方が、最終的には身につくのではないでしょうか。
ただ、これは恐ろしく時間がかかりますし、自分でも、世界がどんな風に広がっていくかわからないという部分もあります。なにせ偶然狙いですからね。ただ、人生は誰しも先が見えない中を進んでいるのだからと考えれば、これほど面白いこと冒険はありません。遠い将来、自分の立つ場所はどこなのか、きっと素敵なところにいることを想像しつつ、頑張ります。

繰り返しの魅力

映画好きの友人が、同じ作品を繰り返し見ることについて、「展開がわかると、細部まで見えてくるんだよ」と言っていて、はっとしました。私が同じ諸説を何度も読む時の気持ちと、まるで一緒だったからです。
1回目はストーリーを追うので精一杯、内容によっては、笑ったり怒ったり、泣いたり感動したりして、いっきに最後まで駆け抜けます。2回目は結末を知っているので、少し安心して読めますね。そのせいか読書スピードはゆっくりです。「ああ、ここが最後のあのシーンの伏線になっていたのか」などと気付く余裕もあります。そして3度目以降は、好きな場面だけ時間をかけたり、登場人物の衣装に目が行ったりと、細かなところを楽しめます。安心したいためにあえて、慣れ親しんだストーリーを楽しむ時もあるのですよ。だから、本はお気に入りに出会えれば、何度だって、何年だって楽しめるのです。
ここまで細かな話はしませんでしたが、友人もきっと納得してくれるでしょう。今度彼女の家に遊びに行った時、一番たくさん見ている映画について、話を聞いてみようかしら。きっと止まることなく、その魅力を語ってくれるでしょう。そして好きなものに対する情熱は。ぜったいに、私への刺激になると思うのです。

好きなことを続ける条件

知り合いがお芝居をしています。私が友達になったのはお互いに成人してからなのですが、十代だった学生時代に、演劇部に入ったことがきっかけで、この世界にはまってしまったのだそうです。仕事をしてお金を稼ぎ、それを芝居に費やす日々は、とても忙しく充実しているのだと言っていました。
ただ、将来の事を考えると、このままでいいのかな、と思う時もあるそうです。たとえば結婚生活を考えた時に、現状を維持できるのかとか……相手次第ではあるでしょうが、難しい問題ではありますよね。だからこそ私は、結婚して家庭を維持しつつ、作家や漫画家、その他諸々のクリエイター活動をしている方を、尊敬しています。
もちろん、他の仕事を下にしているということではないですよ。ただ、ある程度定時が決まっていて、外で業務に取り組む職種ならまだしも、家にこもって締め切りに合わせて頑張らなければならないというのは「自由な時間がとれるでしょ」なんて思われがちなぶん、大変だろうなと思うのです。家にいるからって暇なわけじゃない、と言ったところで、理解してもらえないこともあるでしょうからね。好きなことをやり続けるには、本人の意志と同様に、協力してくれる人も必須だな、と考えさせられた出来事でした。

現実が伝説になる時

文豪や作曲家、画家など有名な方の没後数十年、あるいは数百年には、イベントが企画されたり、作品が新たに注目されることが多いですよね。昔から、そのような時期に組まれるテレビ特番が大好きです。その理由を考えたことはなかったのですが、先日、図書館で偉人伝を探していた時に、はっと気づきました。私はひとりの人の人生を、深く見るのが好きなのです。
たとえば遠い昔に生きた方の作品が、現代にも残っているのはすごいこと。芸術だけではなく、家屋や料理、景観などにも同じことが言えるでしょう。ただ私はそれを見ると必ず、そこには誰が住んでいたのか、どうやってそのレシピを思いついたのか、この景色はいつから変わりないのか、といったいわゆる背景が気になります。それを知らなくても、目の前にあるものの美しさや美味しさを受け入れることはできますが、知っていればこそ、より深く感じるものがあるとも思うのです。
没後何百年もお祝いされる人達は、たとえば千年たっても、何かが企画されるのかしら。そんなことを考えつつ、そうなるともはや伝説上の人物に近いものがあるなあと思いました。作品が残っているから、存在が明らかになるような遠い人と言うと、とてもかっこいいですね。