涙を流して心を洗おう

本を読む気にもなれず、テレビをつけても流しているだけ。それなのに気持ちがいらいらして落ち着かない時、「耳が痛くならないくらいの音量で、ヘッドフォンをして音楽を聞くと、ストレス解消になるよ」そう教えてくれたのは、友人でした。以来私は、自分が疲れているなと感じると、そのようにしています。
そうすると不思議なもので、ぼろぼろと涙がこぼれるのですよ。毎日スピーカーで聞いているのと同じ曲なのに、何か違うものを感じ取るのでしょうか。それとも、作業をしながら聞くのではなく、その曲だけに集中して、耳を傾けるというのがいいのかしら。理由はよくわかりませんが、ずいぶんすっきりできるのは確かです。
私の場合は、音楽のジャンルにはこだわらず、その時に夢中になっているものを選ぶので、フォークやジャズ、ロックなど様々です。ただ友人はバラード調がいいと言いましたし、別の子は、感情が爆発するような激しいものがいいということでした。まさに人それぞれですが、共通しているのは、皆、なぜか気付くと泣いてしまっているということ。毎日繰り返しの日常の中でも、胸に溜まるものがあるのでしょう。この方法で癒されて、また明日も頑張ることができればなあと思います。

古書から発見の定番品

久しぶりに古書店に行ったら、カウンターの横にしおりが置いてありました。いわゆる「ご自由にお取りください」というものです。おそらく、買い取りの本の中に挟まっていたものなのでしょう。出版社も新旧も様々で、ちらっと見えたものはだいぶ古そうでした。
これは確かにお店のお客さんにとっては便利だと思うのですが、私としてはちょっと残念なのですよね。古本を購入した時に「こんな懐かしいしおりが挟まっていた」「この宣伝、ずいぶん昔のものだなあ」と驚くのが楽しみでもあるからです。時には購入時のチェック漏れなのか、メモ用紙が挟まっていることもあります。一度などは、割りばしの袋が入っていましたよ。思わず笑ってしまいました。
これは自室の本棚で長く保管しているものにも、同じことが言えます。なくしたと思っていたしおりや、だいぶ昔のレシートなど。付箋が貼りっぱなしの時は、ページにすっかりくっついてしまっていて、とるのが大変でした。定番……と言えるかはわかりませんが、あってもおかしくない、へそくりの発見は、過去に一度だけありましたよ。祖父の書棚を片付けた時のことです。本当にこんなところにお金を隠すのか、とこれも笑ってしまったことを覚えています。

一番怖いホラー体験

先日、友人に勧められたホラー小説を読みました。文字だからこそ耐えられる恐ろしい描写は、私を震え上がらせるには十分で、最後はなるべく文面の内容を想像しないように、なんて考えてしまったほどですよ。これではただの、文字を追う作業ですね。後に気付いて、自分でも苦笑しました。
その点漫画は、イラストで描かれているので、否が応でも怖い場面が目に飛び込んできますよね。それはおどろおどろしい、子供が見たら泣いてしまいそうなものもあったりして、描いている方は怖くないのかなと気になることもしばしばです。ドラマなどではよく、恐怖ものを撮る時は、事前にお祓いに行くなんて話も聞きますが、書籍の場合も、そんなことがあるのかしら。
ただ私が一番怖いと思うのは、小説でも漫画でも、もちろん映像でもなく、聞き語りです。一度、ヘッドフォンをつけて怪談を聞くというのを、体験したことがあるのですよ。低い声で淡々と語られる内容は、自然と耳に入ってきますし、文字のように意識しないようにしても、効果音などの影響で、想像は勝手に膨らんでしまいます。それがとても、恐ろしく、私は結局最後まで、その話を聞くことができませんでした。ホラーなんて慣れっこだという人には、ぜひチャレンジしてほしいと思います。

些細な現実から広がる想像

指先の一か所がかゆくて、でも虫に刺された様子はなくて、何事だろうと目を凝らしてみたら、皮一枚がすうっと細く、切れていました。きっと紙を扱った時に、怪我をしたのでしょう。このようなことは案外多く、血も出ない癖に水がしみる気がするのが、不思議なものです。それとも自分が気付かないだけかしら。
でもこれくらいでも痛いことを考えると、今読んでいるファンタジー小説で、剣で斬られてしまった騎士は、いったいどのくらい辛いのでしょう。比べるレベルが違いすぎることは承知の上で、そんなことを考えました。よく何事も経験がなければ書けない、という人もいますが、私は絶対に、そんなことはないと思います。だってこのかっこいい騎士を書いている作者の方が、剣を振るって敵と戦った過去、ましてや傷を負ったことがあるなんて、到底思えませんもの。でもこんなに素敵な場面ができあがるのですから、やっぱり大事なのは、想像力ではないでしょうか。
さて、そうやって熱く語ったところで、その小説の世界に戻りましょう。危機を乗り越えた彼は、この後どんな道を進んでいくのか。自分の擦り傷の痛みから、私も想像が広がります。きっと苦労している彼には、最高の舞台が用意されていることでしょう。

疲れた自分に休息を

先日、自室で目薬をさした後、なぜか私はそれを、中身が入ったマグカップの中に入れてしまいました。数分後にお茶を飲もうとして気付き、なぜこんなことをしたのかと、愕然。時々このように、ぼんやりしてしまうときがあるんです。
いつだったかは、右手に買ってきたばかりのアイス、左手に一緒に購入した漫画を持って冷蔵庫に近付いて、冷凍庫に漫画を入れていました。これは自室に行って荷物を置こうとしたときに発覚し、すぐに台所へ戻りましたよ。放っておいたら、本が水分を吸って、しなしなになってしまいそうでしたからね。
それを回収しながら、これなら私も、面白四コマエッセイが描けるかもしれない、と考えました。時折読むエッセイは、ふふっと笑ってしまうような面白い日常が描かれていますから、私の毎日も、匹敵するのではないか、と思ったのです。ただ、それを作品にする才能は残念ながら持ち合わせていませんので、想像するだけですけれど。それでもずいぶん明るい気持ちになりました。
しかしさすがに、マグカップに目薬は気を付けないといけません。いくらなんでもぼんやりしすぎです。もしかしたら疲れているのかしら。これはゆっくり本でも読みながら、休養する日が必要ですね。

新米ママと絵本の出会い

図書館に行った時、小さな子供を抱いたお母さんたちが、みんなお揃いのバックを持っていることに気が付きました。ちらりと見えた中には、借りてきたらしい絵本。どうやらバックは、図書館の読み聞かせ企画で配られたものらしいのです。児童書コーナーに行った時、募集版にそのような広告が貼られているのを見ました。
そう言えば、どこかの外国では、新生児向けにファーストセットなるものがあるらしいですよ。生まれたばかりの赤ちゃんが必要とする物を一式と、絵本やおもちゃなどがセットになっていて、格安なんですって。それさえあれば、当座は大丈夫ということで、新しくママになる方たちに人気なんだとか。
日本でも、ファーストブックというのは見たことがありますね。何歳児向けの作品が揃っています、という企画です。どこで知ったのはかまったく覚えていないのですが、このようなものがあれば、子供にどんな物を読んであげたらいいかわからないという新米ママも、ひと安心でしょう。私の時は、祖母が大事に取っておいた誰かのお古を読んで大きくなりましたけれども、今は核家族が多いですからね。
小さな頃から本に親しみ、いずれは読書好きの子に育ちますよう。同じく読書が趣味の大人からの希望です。

資料も成長も一歩から

先日、文章を書くことを生業としている知人が「仕事の資料はまとめて買っちゃだめなんだよ」と言っていました。私は気に入れば、漫画や小説は作家買いをしてしまうこともよくあります。読んでも次があるというのは嬉しいですし、安心感もあるからです。
それなのになぜ資料はだめなんでしょう?不思議に思って聞いてみれば、「自分の理解度に合わせたものを手に取らなければ意味がないから」だそうです。一冊読了したら、次のレベルのものを読み、それが終わったらさらに次、難しすぎたら簡単なものに逆戻り、そのようにして、知識を育てていくのですって。なるほど、と深く納得しましたね。漫画や小説は、続き物だったり、そうでなくても内容にレベルが存在しないから、いっきに揃えてしまっても、問題が起こらないのです。
彼から聞いたことを、別の友人に話すと、彼女も「わかる」と言っていました。法律関連の勉強をしていた彼女は、最初は高校レベルの内容を復讐することから始めたのだそうです。それが今は、法に関する仕事をしているのですから、なんて素晴らしいのでしょう。結局は、どんなにすごい人達も、一歩一歩進んでいるということなのですね。私も見習わなくては、と思いました。

しみついた文法と言葉

大昔、文章には文節というものがあるのだと習ったことがあります。ただすらすらと文を読むようになってから、いちいち意識したことはありませんでした。それですっかり忘れていたのですが、つい最近、長く話すときなどは意識せずに、文節で区切っている自分がいることに気付いたのです。やっぱりそこが、一番切りやすいということなのかしら。変なところで区切ると、日本語は意味が伝わらなくなってしまいますからね。いわゆる「このはしわたるべからず」です。
それ以外にも、品詞も必死に覚えたものでした。知人の子供さんはそれを今学習中です。これも、大人になっても役に立つのかしらと考えてみたけれど、こちらは実感がありません。名前もいくつも忘れてしまっても、スムーズに使えるのが、さすが母国語といった感じです。
日本は島国で、昔からいわゆる大和の国民がメインに生活しています。しかし土地が続いている外国は、隣接する国の人と話すために今でも、何カ国語も扱えるのが当然というところもあるでしょう。そういう人たちの思考は、一体どの国の言葉が中心になるのでしょうね。やっぱり母国語なのかしら。その人たちも、文法は体に染みついているのだとしたら、とてもすごいことですね。

図書館のお供は付録の鞄

図書館で借りたハードカバーを抱えて帰ってきたら、手首のあたりが筋肉痛になってしまいました。さすがに分厚い八冊は重かったようです。でもしかたがないですね。持って行った鞄が、途中で取っ手が取れてしまったのですもの。もともと壊れかけていたのでしょう。あ、まずいかもと思った時には既に遅く、鞄はだらんと布地ごと、破れていました。これではきっと直すのは無理だろうなあと思いつつ、荷物を抱えての帰宅です。
ちなみにその鞄は、何年か前に雑誌の付録についていた物でした。私がそのキャラクターを好きだと知っている友人が、偶然見かけたから、と買ってきてくれたのです。サイズも価格もお手頃でしたし、なによりそれを見かけた彼女が自分を思い出してくれたということが、とても嬉しかったですね。
ただ当時は、同じものを持っている人が多く、ちょっと恥ずかしい気はしました。それで自分でアレンジをくわえて、ちょっと雰囲気を変えたりして。でもこれだけ使ったら、さすがにもとはとれたことでしょう。長い間、図書館へのお供をしてくれた物ですが、潔く手放すことにします。さて、次はどうしようかしら。ちょうどいいサイズの袋が、もう手元にないんですよね。また付録を探してみましょうか。

途中経過と完成作品

時々、映像作品のシナリオや絵コンテが本になり、出版されることがありますね。以前は、わざわざこれを買う必要があるのかしら、と思っていました。しかし友人に借りてそれを読んだ時、これは映像とはまるで違うのだと気が付いたのです。たとえばシナリオならば、当然、同じ言葉が書かれています。しかしそのすべてを、きちんと耳で聞いているのかといえば、必ずしもそうとは限りませんよね。登場人物の表情や、声以外の音などに気をとられる場面もあるからです。
そして絵コンテの場合は、もうまるで別物としか言えません。それはそうですよね。絵コンテというのは、いわば下書きのようなもの。ここがスタートで、完成に近づいていくのですから。はっきり言えば、プロの世界を知らない私には、雑なお絵かきにも見えます。でも逆に、大雑把だからこそ、関わる方たちの苦労が想像できるのです。私達の目に入る完成版が、とても愛おしく、大切なものにも思えます。
残念ながら、それらの本が出版されるのは限られた作品だけですから、いつも手に入るものではないでしょう。しかし機会があったら、一度見てみる価値はあると思います。私はある意味、カルチャーショックを味わえました。