彼女が落語にはまった理由

友人が、落語を好きになりました。友達の付き合いで寄席に行ったのがきっかけだそうです。大きな装置があるわけでもなく、舞台に一人現れた着物の男性が、話しひとつで皆を笑わせる姿が、とても印象的だったのですって。さすがに有名な方となればチケットをとるのは大変ですが、趣味でやっている方を含めれば、毎月いろいろなところで、寄席は行われています。今はそれを調べて、近隣を熱心に通っているのだそうです。
ちなみに著名な落語家さんのCDも揃えたそうですよ。音楽には全く興味のない彼女が、そのために携帯の音楽プレイヤーを買ったというのですから、驚きです。それを毎日通勤しながら聞いていると、仕事で嫌なことがあっても、どうでもよくなってしまうと言っていました。
これほどまでに夢中になれるものがあるというのは、なんて幸せなんでしょう。私は本を愛していますけれど、ここまで一途になったことは、最近はないような気がします。だって、嫌なことがどうでもよくなるなんて、すごいですよ。私の場合は、落ち込んだ気持ちが明るくなる話はあっても、怒りが飛ぶものはありません。私もいつか、彼女ほどにはまれる作品に出会えたらいいなあと、心の底から思いました。

結婚の先にあるもの

少し前、知人女性が結婚しました。花嫁さんというのは、どうして皆美しいんでしょうね。白いドレスに身を包んだ彼女は、まるでどこかの国のお姫様のように見えました。親戚らしい小さな女の子が、くっついて離れなかった理由もわかります。きっと「私もこんなきらきらのドレスが着たい」と思っていたのでしょう。その子もピンク色の洋服を着て、とても愛らしかったのです。
しかしこうして知り合いの式に出る度に、私はこれがゴールではないのだよなあ、としみじみと思います。たとえば「昔々あるところに」で始まるお話の多くは「そして王子様とお姫様は結婚して、幸せに暮らしました」といったふうに終わるものが多いです。もちろん子供の頃は、それを信じていました。でも結婚生活の後には、子育てがあったり親の介護があったりと、難関はまだまだやってきます。むしろ式の当日が、幸福の絶頂じゃないのかと感じるほどです。
ただ私は、その後に続く話の方が好きだったりするのですよね。たとえば日々の生活を描いた日常エッセイは、恋愛小説よりもよほど親しみが持てます。恋が萌える幸せだとしたら、生活はたゆたう幸せ、と言いたいかな。時折は荒れる水の流れに、それでも身を任せ、家族とともにある……憧れです。

読書で心洗われる時

ふと、私が初めて感涙した本は何だろうなあ、と考えています。子供の頃は、それほど涙は流しませんでした。たぶん学生時代も、面白いとわくわくする気持ちが先に立っていたでしょう。しかし今は、何気ない日常の場面でも、目頭が熱くなってしまうことがあるんですよね。これが年齢を重ねるということでしょうか。
最近一番泣いたのは、家族の食事のシーンでした。普通に食卓を囲んでいて、特に嬉しいことも悲しいこともない、淡々とした時間です。前後で悲しいストーリーがあるわけでもないのに、とても感動してしまって……もしかしたら私、疲れているのかもしれませんね。ここは一度、ぜったいに笑えるコメディ路線の漫画を手に取るべきでしょうか。
ただ、どんな感情にしても、本から感じとることができる、というのは素晴らしいと思います。だって泣けば心が洗われた気がしますし、笑えば活力が生まれます。怒りや悲しみはたいていその場限り、その後の山場のシーンへの途中のことが多いので、最終的には感動や喜びに変わりますからね。深く考える必要は、あまりありません。ひとりの時にこそ、読書で気持ちを発散させて、皆の前では、いつでも落ち着いた自分でいられるのが理想です。

求める出会いは偶然と必然

冬から春、夏から秋へと季節が変わる頃、友人はたいてい不調になります。今までは特に深く考えず、季節の変わり目だから仕方ないのだろうと思っていたのですが、これは不安定な気候によって、自律神経が乱れてしまうことが原因らしいですね。どうりで、毎日不具合が出る部位が変わると思っていました。
ちなみにこれは、インターネットをぼんやり眺めていた時に、見つけた記事です。時間泥棒のネットサーフィンですが、偶然面白いことや興味深い話題を見られると、嬉しくなりますね。先日は「食べ物、エッセイ」で検索して、お勧めのエッセイの情報を集めました。明日の食事は何にしようとレシピ本を眺めていたら、不意に読みたくなったのです。
うちにある方の新刊を探して買えば、面白いのは間違いないのですが、新しい味を読んでみたかったのですよね。あれこれ情報を集めているつもりでも、やっぱり好みは偏りますから、こうして時々、意識して違うものを求めるのも大切だと思っています。近々友達に会う約束をしているので、その時に「最近面白い本読んだ?」と聞いてみるのもいいですね。自律神経はストレスとも関係しているらしいので、素敵な作品に出会えれば、一年中いつでも幸せで、元気でいられるかもしれません。

電子書籍、読まずに学んだのは我慢

近所のスーパーで、ビンゴになっているスタンプを集めてどこかのラインを揃えると、該当のものが貰えるというキャンペーンをする時があります。「ここのマスを揃えたい」と思ったら、そのスタンプが貰える日にちに、お店を訪れなければいけないわけです。これは簡単なようで案外難しく、いつもつい、真剣に予定を組んでしまいます。そんなことが先日、電子書籍サイトでも起こりました。
そこも同じようにスタンプを集めるのですが、これがなかなか曲者なのですよ。サイトを見る時間を作るのが、ではありません。そのページを見るとつい新刊をチェックしてしまい、予定にはなかった本を購入してしまうのです。もちろん、運営側はそれが狙いなのでしょう。しかしお小遣いが有限の私からすれば、なかなかに大変な問題です。
もちろん、買ったらしっかり楽しめますから、それはそれでいいのですが、その後の暮らしが……と考えると、思わずため息も漏れそうです。要は自制心のない自分がいけないということですね。これを機に、生活は節約を、心は我慢を覚えましょう。電子書籍のサイトで、まさかこんなことを学ぶ事になろうとは思いませんでした。なんでも自分の糧、勉強になりますね。

自宅の衣装で華やぐ心

この間おもちゃ屋さんで、子供のコスプレ衣装が売られていました。魔法少女やお姫様のものです。このような服を着るのはハロウィンくらいじゃないのかしら、と思いがちですが、お店には年中ありますから、たぶん誕生日などにも使用するのでしょうね。大人がパーティーグッズではしゃぐのと、同じかもしれません。
ただ、私達の場合は、どうしても恥ずかしさが先に立ちます。たとえばテレビに出ている女優さんの服装がとても素敵で、どこのブランドのものかわかっていても「でも一緒のものを買ったからといって、あの人みたいに似あうわけじゃないし」なんて考えて、結局着ない人はたくさんいるでしょう。それに、お姫様や魔法少女なんて、絶対無理です。ただ私は、それっぽい格好を楽しむのはありだと思うんですよ。
憧れのキャラのイメージの色を取り入れてみたり、普段の自分なら選ばないようなタイプのパジャマを選んでみたり。いっそのこと、部屋着は年齢とか人の評価を考えない、というのもありですよね。誰に迷惑をかけるわけでもないし、それで自分が楽しく幸せになれるのならば、とても素敵なことです。ただ、宅急便が来たときなど、万が一の突然の来客時には、相当焦ることになりそうですけれども。

なりきり子供の装い

先日、友達と商店街を歩いていたら、風船で作った剣や仔犬を持って歩いている子供達がいました。何事かと思ったのですが、どうやら近くでバルーンアートの実演をやっている方がいたようです。子供の父親が、空気の入った剣でぱちぱち叩かれていたので、大変だなあと思いながら見ていたら、彼は一言「いつもよりも痛くなくていいね」と。普段はおもちゃの武器が相手なのかしら。思わず笑いそうになりました。
そういえば私の親戚の子たちも、幼少時代は保育所で、たくさんの武器を作ってきたものです。それはたとえば、新聞紙を丸めて作った刀だったり、段ボールの板に持ち手を付けた盾だったり、装備品としてくくるなら、ビニールシートにマジックで模様を描いたヒーローマントや、髪を頭のサイズに丸めた王冠もありましたね。男の子も女の子も、工作が大好きで、自宅に戻ってからは、なりきって遊んでいたものです。
やっぱり、アニメや絵本の影響で好きになるのでしょうか。ただ、節分の日の鬼のお面や、ハロウィンの時のお化けの装いは結構怖いデザインの物もあり、驚いてしまいます。子供って案外ちゃんと、まわりを見ているんですよね。その時のイメージをしっかりつかんでいるので、すごいなと思いました。

気分は高揚、体はダウン?

この間「久しぶりに予定のない休日だ」と喜んでいた友人は、なんとその日のうちに三本の映画を見たそうです。一本二時間だとしても、合計で六時間、椅子に座りっぱなしですよ。私だったら、肩はバキバキ、お尻も痛くなってしまうだろうなあ。いくら最近は座り心地が良くなっているとは言っても、私は二本が限界なのです。それでも翌日なぜか、筋肉痛になったのですが。
ただ、見ている最中は集中しているから、こういった苦痛には気付きません。エンドロールが終わり「ああ面白かった」と立ち上がろうとしたところで、体の節々がおかしくなっていることがわかるのです。曲げっぱなしだった膝がぱきん!と初めて鳴った時は、自分も年をとったなあなんて思ってしまいましたよ。そして、重くなってしまった体を引きずるようにして、館内の階段を進み、屋外へ。人気作品なら人が一杯なので無理ですけれど、そうでなければ、そこでやっと一息つく、という感じです。
あらためて文字にして見ると、なんだか自分が疲れているような気がしてきました。楽しい映画を見て気持ちは高揚していても、体が追い付かないような。これはいけませんね。もうちょっと体力をつけて、体もうきうきさせてあげなければ。

雑誌を飾るための工夫

最近、本棚の上に素敵な表紙の雑誌を立てかけて、目の保養をしています。朝起きた時にすぐ視界に入る位置なので、一日がとても気分よく始められて、これはいい案だったなあと自画自賛しているのですよ。ただ問題は、雑誌がだんだんくったりと曲がってしまうことですね。定期的に入れ替えてはいるのですが、このいびつな形状が癖になってしまったらどうしようかと少々心配でもあります。
ただそれを友人に言ったところあっさりと「補強すればいいじゃない」と言われました。硬い板をあてる、なんて。どうしてこんな簡単なことに思い至らなかったのでしょう。とりあえず家にある段ボールを雑誌サイズより少し大きく切って、下の部分を折り曲げて立てかけても倒れないように工夫したものを作ってみましたが、確かに、何もない時よりは良い感じです。あとはこれをもっと綺麗に作れば、お客さんが来た時でも、おかしなことにがならないでしょう。お金を使うのも惜しいので、早速家の中の材料を物色です。
日常生活は、こうした少しの工夫で、楽しくなっていくものだと実感しました。これはこういうもの、仕方ないと思いながらも、他にも気になっているところはたくさんあるし、自分でどうにかしてみましょうか。

私のイメージは折った鶴

細ねぎの入った卵焼きを作る時はいつも、祖母を思いだします。彼女は毎日の祖父のお弁当に、必ずその一品を入れていたからです。その他、ずいぶんと長い間本棚に並んでいるシリーズのひとつは親友の、すっかり色あせた絵本は、保育所の先生の記憶を呼び起こしますね。前者はともに先を予想し合って、競うようにして新刊を読んだ作品で、後者は、何度もお願いして読んでもらった話です。
このように何かを見て、特定の誰かを思いだすのは、その物の中にその人が生きているような気がします。日本には長く使ったものに神が宿るという、付喪神の考え方がありますけれど、それに近いような……というと、さすがにおかしいでしょうか。でもそれくらいいつも、私は彼らを連想するのです。今は会う機会が減っていたり、会えなくなったりしていますが、彼らは、今ここにいる私という人間を形作るためには、確かに必要な人達でした。
ちなみに友人の一人は、折り鶴を見ると私を連想すると言っていましたね。学生時代、お菓子の包み紙などで鶴を折って暇つぶしをする機会が多かったから、そのせいかしら。ちなみに一番小さなサイズは、飴の包み紙と同じくらいの大きさで作ったものでした。最大は、なぜか新聞紙です。